学生生活

 平成30年7月21日に貴布禰神社で開催された、KOGAO QUEST-あまがさき環境オープンカレッジ集中講座ーに参加してきました。公害の歴史から対話と協働を探るロールプレイングプログラムで連続5回モノの2回目。ゲストは尼崎公害患者・家族の会会長の松光子さん。

「おばちゃんが企業に勝った」1999年、公害裁判の和解を報じる新聞記事。裁判を率いた原告団長の松さんは、子育て真っ最中の40年前に、生後3か月の息子さんの咳が止まらず、近所の病院へ駆け込みます。なんかおかしいと勉強するうちに「公害」を意識するようになったそうです。


 家の人も、近所の人も、咳が出たら止まらない。原因がわからないため、「尼崎の風土病」と巷では言われていたそうです。松さんは病院に通う中で公害が原因と知ります、が、当時は「コウガイってどんな字ですか?」と先生に聞くくらい存在が知られていませんでした。

 時は高度経済成長期、日本列島改造論を田中角栄が打ち上げ、工場から出る煙は戦後の復興の象徴とされていて、誇らしいものでした。しかしその煙が咳の原因だったのです。当初は杭瀬にできた新興住宅団地の人が気づきました。外から来た人だから気づいたと言います。

 子どもたちが松さんの家に集まって絵を描いたら太陽は真っ黒、ちょうちょやトンボを知らない子だらけでした。当時できた猪名川にある尼崎高原ロッジに出かけた時に子どもたちが川の水を見て「水道水が外に流れてる!」と驚いたそうです。当時の尼崎の蓬川や庄下川がいかにひどかったかがわかります。


 野村医院に行ったらみんな同じ症状だし、周り近所の子どもが365日、咳をしっぱなしで夜中に救急車で運ばれてる状態。私たちは旧尼崎町から出ていくところはない。「松さんなんとかして」と頼られて、勉強会を始めました。SOxやNOxとか言われても分からんので、先生に日本語で話してと頼んだと言います。当時は60台の女性が多く、松さんはお姉さん的な存在でした。

 そんな中で知り合った先生から、家族の咳の状況を日記に付けるように言われました。すると家族の咳の症状と、市の大気データの発表と企業・工場の稼働日とぴったりあったところから、怒りを企業にぶつけていきます。市とは仲良くして一緒に企業と戦いました。なぜかというと、市とも喧嘩をするとデータを見せてもらえなくなるからです。


 松さん以外にも、グループに分かれて尼崎公害患者・家族の会の皆さんからもお話を伺いました。
 一連の活動のなかで公害患者と認定されることに葛藤があったと言います。子どもたちの体のことを考えて企業を訴え、認定してもらえたものの、周囲には企業で働く家族もたくさんいて、関係は微妙だったそうです。それでも次の世代のためにこの悪循環を断ち切らないと奮い立たせたとのお話がありました。

 また、発作のしんどさは言葉では伝わらないとお聞きしました。発作が起きると息を吐くことはできても吸うことができません。横になって寝られないそうで、夜中、何時間も座ったままの状態が何日も続きます。息が吸えないので苦しい、そのまま死んでもいいと何回も思いました。自分のことなら我慢ができても家族、ましてや小さな子どもさんが苦しんでいる姿を見てなんとかしないといけないと思ったそうです。


 松さんは言います。「声をあげないと相手に伝わらない」。私たちが戦ってきた公害問題は確かに収まってきたかもしれないが、目に見えない化学物質や私たちの知らないなにかが空気中に混入しているかもしれない。何かおかしいと思ったときには子どもたちや孫たちのために声をあげてほしい、と。

(みんなの尼崎大学事務局 尼崎大学・学びと育ち研究担当 立石 孝裕)


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