オープンキャンパス

 2021年1月23日(土)は、第27回みんなの尼崎大学オープンキャンパス「オトナの尼崎学」を開きました。
 当初は23日に座学で「オトナの尼崎学」、24日は市内を巡る「ぶらり尼崎ツアー」の連続講座を予定していましたが、新型コロナウイルス感染症対策のため、ツアーは3月に延期することに。
「歴史」がテーマということで、参加者層がいつもよりぐっと「オトナ」だった「オトナの尼崎学」。さてさて、どんな様子だったのでしょうか。

「れきはく」見学ツアーに出発!

 今回は昨年10月にオープンした尼崎市立歴史博物館(通称:れきはく)を会場に、「ジェンダー」と「カルチャー」という視点で専門家のセンセイと一緒に尼崎の歴史を深掘りするというプログラム。
 まずは、新しくできた「れきはく」の見学からスタートです。学芸員のガイドのもと2グループに分かれて、館内ツアーをしました。

 尼崎の原始・古代から近現代まで時代ごとに部屋が分かれており、館内をぐるっと回ると尼崎の歴史を知ることができます。ツアー中は、新人ガイドに歴史マニアの参加者が助け船を出す場面も。「歴史が好きで何度も講座に参加するうちに覚えてしまいました」とはにかんでおられました。


入館無料とは思えない見応えに一同大満足

オトコとオンナと尼崎

 ツアーの後は地域研究史料室「あまがさきアーカイブズ」の辻川敦さんから「オトコとオンナと尼崎」をテーマに歴史的な側面から、尼崎の「女性」(とそこから「男性」の姿も想像してみたかったのですが、なかなかそこまではたどりつけませんでした)にスポットを当てて話題提供いただきました。


右が地域研究史料室「あまがさきアーカイブズ」の辻川さん

 まずは、尼崎で活躍したキーパーソンとして、2人の女性市長とともに、公害反対運動でリーダーとなった、43号線公害対策尼崎連合会代表の森島千代子さんと、尼崎公害患者・家族の会会長の松光子さんを紹介してもらいました。

 国道43号線沿いに住んでいた森島さん(明治生まれ)は1960年代半ばから喘息になり、大気汚染を訴える反対運動に加わります。失業対策労働(職業があっせんしていた失業者に対する日雇い労働)の組合活動の経験も生かし、昭和47(1972)年から武庫川町の阪神高速道路工事現場で座り込み闘争を始め、結果として7年間も工事を止めることになります。
 当時の公害反対運動には新左翼系の学生など様々な背景を持つ人が集まっていましたが、森島さんはそれをまとめあげることのできる、そして行政からも一目置かれる、人間的魅力のあるリーダーだったそうです。

 一方、松さんは職場の労働組合活動で出会った夫と結婚し主婦となりますが、1960年代に工場から排出される大気汚染が原因で、自身も子どもも喘息になり昭和63(1988)年に国と企業を相手どった公害訴訟を起こします。学識経験者や医者は男性が多い中、地元の患者のまとめ役は「おばちゃんの力で」と一手に松さんが引き受けたそうです。
 この2つの公害反対運動は、後の環境行政にも大きな影響を与えました。

 森島さんの話は麻生節子著『コスモスの甦る日まで』の中で、夫の浮気や家庭内暴力などを含めた壮絶な半生が綴られ、松さんの話は杉本久未子著『赤とんぼの舞う青い空を』で記されています(尼崎市立図書館で前者は閲覧、後者は貸出可)。「公害のことだけでなく日常生活も書かれた伝記だと、その人のストーリーまで知ることができ、伝わってくるものがありますね」と辻川さん。
 一方で、昭和戦前期以前の歴史に登場するリーダーには女性の個人名があまり出てこないこと(男性ばかり)、またいわゆる「普通」の女性の暮らしは記録に残らないことが多く、尼崎の女性史をたどることはなかなか難しいといいます。


 話題が転じて、次は尼崎における夜の街の歴史についての話題に。神崎町に遊女塚がありますが、当時の神崎川は淀川を通じて京都と結ばれていたことから都と瀬戸内海を結ぶ港として賑わい、港町の常として遊郭が栄えたそう。明治大正期には、工場の労働者が大阪や神戸に遊びに行った翌日、遅刻欠勤するのが問題視され、議会で遊郭誘致運動が決議されたことも(ただこれは、反対者もいて誘致には至らず)。また、昭和31(1956)年の「アサヒグラフ」紙面では神崎新地が大きく紹介され、当時は注目を集めていたことがわかります。


参加者同士グループで感想を話した後(一人でゆっくり考えるのもOK)、全体で共有しました

 参加者からは「尼崎は都市部なので、比較的保守的でない雰囲気があるのかもしれない」「世代の違う参加者の意見が新鮮だった。交流できてよかった」などの感想がありました。
 「女性センタートレピエはどういう経緯でできたんですか?」の質問には、「1974年に「勤労婦人センター」として設立されました。その後変遷をへて、今トレピエという愛称になっています。尼崎は昔から共働きの人が多く、働く女性がどう自立するかは切実な問題。尼崎の高度成長期の最後にできた公共施設ですね」と回答もありました。

 みんなの尼崎大学スタッフは「市長でも公害反対運動のリーダーでも、一人の後ろにはその人を応援する何千人、何万人の人々がいたんだなと感じました。また、日常生活の中で課題を感じて立ち上がっていくという共通点がありますね」とコメント。辻川さんからは「時代によって女性の置かれた環境は全然違う。単に昔は良かったというノスタルジーは「人」を見ていないと思います。参加者の皆さんの考察は非常に鋭かった」と最後に締めくくっていただきました。

尼崎カルチャーの源泉を探る

 続いては学芸員の桃谷和則さんから「尼崎カルチャーの源泉を探る」をテーマにお話を聞きました。カルチャーには、文化や生活様式、風土など一言では表せないほど様々な意味があるため、最初このテーマのリクエストがあったときは、とても短時間で話せるものではないと怒ったという桃谷さん。
 今回は「地域」「出身」「職域」の視点に絞りましたと前置きした上で、話題提供いただきました。


学芸員の桃谷さんからお話をお聞きしました

 まず、地域のカルチャーについてですが、「兵庫の祭り・行事調査」によると、尼崎市内で戦後から続く祭りは37件あるそう。例えば、貴布禰神社や築地で開かれているだんじり。この二つのだんじりはもとは一つの祭りで、約300年前に始まったといいます。
 伝統を守り伝えてきた地域の保存会には、引っ越して現在では違う町に住む人も所属しており、「地域のカルチャーは出身地のカルチャーでもある」と桃谷さん。祭りを続けるには金銭面や人手不足、事故など多岐に渡る難しい問題がありますが、祭りの持つ非日常感に人々が惹きつけられているからこそ、現在まで続いていると話します。

 このだんじり祭りは市域南部の文化ですが、ものすごく単純に説明すると、尼崎では「市域南部」と「市域北部」、また「旧町・旧村」と「新興住宅地」でカルチャーが分けられるのではと桃谷さんは話します。
 大正から昭和戦前期に阪急沿線やJR立花駅周辺で新興住宅地の開発が行われ、大阪や神戸で働くいわゆるホワイトカラーが住むようになりました。ここでは住民同士の交流を図るために自治会が作られ、懇親会やカルチャースクール、また独自に水道等のライフラインまでも整えていたといいます。現代では当たり前だと思われている暮らしの基盤を作ったのが、当時の新興住宅地だったのです。


 次に出身地のカルチャーについては、尼崎には奄美や沖縄にルーツのある人が多く住んでいますが、移住者が増えたのは明治のことだそう。明治39(1906)年に、鹿児島の知覧から女子が尼崎紡績に集団入社したことをきっかけに「尼崎紡績だったら娘を出しても安心」と広まり、女性の出稼ぎが増加。さらに工場が多く立地する尼崎には全国から労働者が訪れ、家族を持って住み着くケースが多く見られました。

 一時期は市の政策で労働者として移り住んできた人へ住居を提供していたたり、市長の挨拶でも「市民の8割は地方からの人」と歓迎する発言があったりしたそう。
 「奄美や沖縄文化が尼崎に根付いたのは、多様な背景を持った人を受け入れてきた素地があったからではないでしょうか・・・詳しくは尼崎の地域情報誌「南部再生」26号をご覧ください」と桃谷さんは話して笑いを誘います。
 (南部再生26号は⇒こちら

 最後に職域(職業に従事している場所、職場のことだそうです)のカルチャーについては、戦後民主主義を反映した職域での文化活動の例として、「日本一歴史の長い演劇祭」と呼ばれている「尼崎市演劇祭」を紹介。同演劇祭は、労働組合を中心とした職場の演劇サークルの発表の場となりました。昭和21(1946)年から始まった「尼崎市文芸会」や、昭和23(1948)年スタートの「尼崎市展」も現在も脈々と継続されています。

 市内に公民館が28ヶ所あった点を見ても、市民の文化活動が多く、市も社会教育施策を大切にしていたことが伺えます。「著名な文化人がいる町に文化があると思われがちですが、市民の文化活動がどれだけ根づいているかが大切」と桃谷さん。


今日の講座を聞いて尼崎のことが誇らしくなったと話す参加者も

 参加者からは「組合活動の結束のために文化活動を受動的にやらされていたと思っていたけれど、自分たちなりに楽しんでいたから継続しているのだと知りました。
 「当時の職域は家ともうひとつの居場所だったが、現在は職域が機能しなくなっているので、カルチャーを生むためにみんなの尼崎大学のような場があるのだと思いました」や「私の両親は韓国から引き上げてきたときに、いろんな土地を渡り歩いて尼崎に来たと聞いています。誰でも受け入れやすい土壌だと感じています」などのコメントがありました。
 桃谷さんは「尼崎出身だと言うと引かれるという人がいますが、尼崎が良い町だと言い返す知識をいっぱい持ってほしいと思います」と締めくくっていました。

 尼崎の歴史について「ジェンダー」と「カルチャー」の視点で深掘った「オトナの尼崎学」。いつもより「オトナ」な参加者層のおかげで、とてもいい雰囲気の中で、多世代の体験談や価値観を学び合うことができました。歴史の話を聞き現代と結びつけながら、未来に向けて自分で思考を深めていく、とても贅沢な時間になりました。
 2日目に予定していた「ぶらり尼崎ツアー」は、おかげさまで満員御礼。3月27日の開催を予定しておりますので、開催後のレポートを楽しみにお待ちください。




この記事を書いた人

みんなの尼崎大学事務局

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